流れ星による読書日記。大学在学中に200冊を読破。現在のべ900冊目に突入中! 目指すは…1000冊?
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読書
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文学部在学中に223冊を読破。
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「○○冊目!」…在学中
「○○冊目!」…卒業後
もうすぐ通算650冊に到達予定。
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720冊目!
「ナツイチ2011」より
大型連休に入り、新年度の慌ただしさから一呼吸おいて過ごしています。この春も、仕事では別れと出会いがあり、精神面では少し息切れし始めていた頃でした。初めてうつ症状が出たきっかけも春だったので、だいぶ軽くなったとはいえ季節の変わり目には体も心も揺れます。
この本は、別れをテーマにした短編集です。どの作品も、結末には好きな人との別れが書かれていて、失恋直後にはあまりおすすめできません。でも、主人公たちはみな絶望や悲しみに打ちひしがれているのではなく、どこか冷めた目で自己を見つめているような文体です。
別れたくない、もっと一緒にいたい。なのに、その気持ちが強く燃え上がる形の愛情やドラマティックな「好き」はこの作品群には登場しません。それどころか、自分は本当に好きだと思っていたのだろうか、と自問していたり、感情を整理しきれず言葉にできなくて戸惑っていたり。もっと複雑な感情が入り混じった「さよなら」ばかりです。
ここからは私の話。
先日、父方の祖母の訃報を受けました。実家と縁を切って10年以上たち、祖母とも15年近く会っていませんでした。弟の話では、認知症が進み施設に入り、ここ数年はずっと寝たきりだったと言います。
知らせを聞いて悲しくなかったといえば嘘になりますが、子供の頃に祖父の葬儀で大泣きしたときほどの強い悲しみはありませんでした。おばあちゃん子だった弟は最後の対面で泣いてしまったそうです。小規模な式だったので、出席もせず香典も出さなかった私は、遠くから追悼の思いを馳せるくらい。
祖母は初孫だからと私をかわいがってくれましたが、期待が強すぎて私自身は閉口していました。
「〇〇さんのお孫さんは中学1年生で留学したのよ。流れ星ちゃんにもできるわよ」と小学校高学年のときに海外留学を勧めてきたかと思えば(←自分の孫の方が上だとマウントをとりたかったらしい)
中学受験に合格すれば「その学校は東京にある□□中の姉妹校だからいい学校よね」
(今の私なら「姉妹校でも別々の学校だから関係ない」と反論します)
外国文学を専攻すると話せば「あなたのひいおじいさんはハワイの日本人学校の校長先生だったのよ。流れ星ちゃんもそのくらい英語をがんばりなさい」。(私はひいおじいさんを知らないし、一緒にしないでほしい)
常にハードルを高いところに掲げていたことばかり、思い出してしまいます。
もうあのプレッシャーからは解放されるという安心感。できれば思い出したくなかった記憶が靄のようにつきまとっている不快感。孫の1人として最後の別れができなかった罪悪感。
祖母を悼むよりも、これほど複雑に絡んだ自分の気持ちを整理するのに精いっぱいでした。
恋の終わりの別れと、死者との永久の別れを同列に並べるには無理があるけれど、この春私が経験した別れを見つめなおすきっかけを作ってくれたことは間違いありません。
→この本にハマったら次はコレ!!
・小池 真理子 『午後の音楽』 (2019/01/02の記事)
(F市図書館で借りて・背表紙幅:1.0cm)
「ナツイチ2011」より
大型連休に入り、新年度の慌ただしさから一呼吸おいて過ごしています。この春も、仕事では別れと出会いがあり、精神面では少し息切れし始めていた頃でした。初めてうつ症状が出たきっかけも春だったので、だいぶ軽くなったとはいえ季節の変わり目には体も心も揺れます。
この本は、別れをテーマにした短編集です。どの作品も、結末には好きな人との別れが書かれていて、失恋直後にはあまりおすすめできません。でも、主人公たちはみな絶望や悲しみに打ちひしがれているのではなく、どこか冷めた目で自己を見つめているような文体です。
別れたくない、もっと一緒にいたい。なのに、その気持ちが強く燃え上がる形の愛情やドラマティックな「好き」はこの作品群には登場しません。それどころか、自分は本当に好きだと思っていたのだろうか、と自問していたり、感情を整理しきれず言葉にできなくて戸惑っていたり。もっと複雑な感情が入り混じった「さよなら」ばかりです。
ここからは私の話。
先日、父方の祖母の訃報を受けました。実家と縁を切って10年以上たち、祖母とも15年近く会っていませんでした。弟の話では、認知症が進み施設に入り、ここ数年はずっと寝たきりだったと言います。
知らせを聞いて悲しくなかったといえば嘘になりますが、子供の頃に祖父の葬儀で大泣きしたときほどの強い悲しみはありませんでした。おばあちゃん子だった弟は最後の対面で泣いてしまったそうです。小規模な式だったので、出席もせず香典も出さなかった私は、遠くから追悼の思いを馳せるくらい。
祖母は初孫だからと私をかわいがってくれましたが、期待が強すぎて私自身は閉口していました。
「〇〇さんのお孫さんは中学1年生で留学したのよ。流れ星ちゃんにもできるわよ」と小学校高学年のときに海外留学を勧めてきたかと思えば(←自分の孫の方が上だとマウントをとりたかったらしい)
中学受験に合格すれば「その学校は東京にある□□中の姉妹校だからいい学校よね」
(今の私なら「姉妹校でも別々の学校だから関係ない」と反論します)
外国文学を専攻すると話せば「あなたのひいおじいさんはハワイの日本人学校の校長先生だったのよ。流れ星ちゃんもそのくらい英語をがんばりなさい」。(私はひいおじいさんを知らないし、一緒にしないでほしい)
常にハードルを高いところに掲げていたことばかり、思い出してしまいます。
もうあのプレッシャーからは解放されるという安心感。できれば思い出したくなかった記憶が靄のようにつきまとっている不快感。孫の1人として最後の別れができなかった罪悪感。
祖母を悼むよりも、これほど複雑に絡んだ自分の気持ちを整理するのに精いっぱいでした。
恋の終わりの別れと、死者との永久の別れを同列に並べるには無理があるけれど、この春私が経験した別れを見つめなおすきっかけを作ってくれたことは間違いありません。
→この本にハマったら次はコレ!!
・小池 真理子 『午後の音楽』 (2019/01/02の記事)
(F市図書館で借りて・背表紙幅:1.0cm)
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